陶芸家 坂爪勝幸 穴窯で焼成した無釉薬の焼締め陶、織部、金継ぎの器等、陶芸作品と造形作品
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陶芸家 坂爪勝幸 寄稿文 視る402号 2002年 京都国立近代美術館ニュース(アメリカンセラミックジャーニー)
アイスバケット
坂爪&ボーカス
スタックピース
穴窯
プレート
本文
ピーター・ヴォーカス作品 アイスバケット
ピーター・ヴォーカスと坂爪勝幸
ピーター・ヴォーカス作品 スタックピース
坂爪勝幸 穴窯
ピーター・ヴォーカス作品 プレート
視る402号 2002 京都国立近代美術館ニュース

アメリカンセラミックジャーニー

坂爪 勝幸

視る 402号 8−10月号 2002
京都国立近代美術館ニュース
視る402号 2002 京都国立近代美術館ニュース

 1977年、私のアメリカンセラミックジャーニーは、始まった。

 70年代初頭、東京近代美術館でアメリカ、カナダ、メキシコ、日本の現代陶芸美術展が開かれた時、その夢のような西洋のフォルムと虹のような色彩の作品に出逢うべく、その時、既に旅は始まっていたのかもしれない。

 ニューヨークに降り立った時、雑多な民族の入り混じった空気、だだっ広い大陸と自己の存在を全く消し去られたまま途方に暮れてジョン・F・ケネディ空港でどのくらい時間を過ごしたかも定かでなかった。

 見た事の無い新しい世界に放り込まれた動物のように、用心深くゆっくりとアメリカの空気を胸で味わった。

 東海岸の夏は、些かの熱気と湿気を含んだ濃い緑に包まれて、瀟洒な雰囲気を漂わせ、初めてリゾートの空気を吸い込んだように思えた。

 アップステイトのアルフレッド大學、陶芸科の自由な中での学生達の制作風景は、かつて日本では出逢う事のない風景だった。

 この大学のサマーセッションは、全米各地から陶芸家を目指す学生達が集まってきていた。

 ペットの犬や猫まで制作者の横でのんびりと短い夏を楽しんでいた。

 何時の時代でも、時の社会の空気に敏感に写して、作品は機能を備えたファンクショナルな物、ポップ、コンセプチュアル、ハイパーリアリズム、インスタレーション、カラーフィールドなど、ありとあらゆる様式がないまぜに存在し、他のアートのジャンルからの影響がとても強かった。

 それだけに、未だに他のジャンルのアーチストから純粋美術として受け入れられない部分があるが、工芸と純粋美術を遠く分け隔てて考えた西洋では仕方のない事かも知れない。

 しかし、当時アメリカの陶芸家は、完全に確立されていない陶芸のマーケットゆえに、精神的により健康的に、それぞれの思った方向で制作を行えた。

 ニューヨーク、マンハッタンの華やかなギャラリーでのオープニングなどで<お前は、何をしているんだ?>と聞かれて、<焼物だ!>と答えると、決ったように<コーヒーマグを!>の注文を受けたものである。殆んど半分馬鹿にして言っているのだが・・・。

 当時、アルフレッドのロバート・ターナーは、物静かな英国紳士の佇まいを持った人で、作品までもゆったりとした雰囲気で、底の広い壷を鉄マット釉で覆い、マーキングでデフォルメした作品は、小粋な渋さを持った。一方、ヴァル・クーシンは、轆轤による大きな蓋つきの入れ物を得意とした。

 私は、焼物を始めて以来、薪による窯を長い事続けてきて、土、釉薬でも日本の伝統を、そのままを学んだ者にとって、当初かなりの異質さを感じた。

 しかし、アメリカの人たちは、日本の陶芸に対し常に畏敬の念を持って接し、私は思いの他、随分と大事にしてもらい、お蔭で緑濃いアップステイトやヴァ―モントで素敵な夏を過ごす事が出来た。

 特に陶芸家の家をそれぞれ歩くうちに、民芸の浜田庄司、バーナード・リーチの影響の大きさに改めて驚かされた。五十年代、浜田氏は、登り窯なるものを持ち込み、アメリカに根つかせた功績には嬉しい気持ちが大きかった。また登り窯も各地で築窯されて稼動していたことには大変に驚かされた。

 しかし、とても残念な事に原料が大きな窯業カンパニーで精製され、均一化された材料で創られる作品は伝統的な登り窯で焼いても、全く似て非なるものであった。

 それでも民芸のもつ本来的な美しい心と、精神性を宗教のように頑なに護る人々が今現在も居ることも事実なのだ。機会あるごと、時折顔を合わせるウォーレン・マッケンジーの生き方には本当に頭が下がる思いがする。彼を見ていると、いつも芸術家とは、いかなる生き物なのか? と言う問いを自問することになる。

 最大、間の抜けた話しなのだが、アメリカンジャーニーの大きな目的にヴォ―カスに会いたいという思いがあった。しかし、ヴォーカスのいる西海岸ではなく、東海岸ではどうする事もならず半ば諦めていたのだが、ヴォーカスの偉大な名は当時から全米に鳴り響いていた。ヴォーカスの名を出すと、これも決ったように<お前もまたヴォーカスに会いたいのか!>という半分揶揄と嫉妬に駆られた顔をされた。

 まさか、この時点で近い将来ヴォーカスの作品を穴窯で焼くようになろうとは、夢にも思わなかった。この時、偶然ピーター・ヴォーカスの回顧展がニューヨーク近代美術館で開かれていて、なんとピーターはニューヨークに居たのである。

 かつて萩の三輪家でわらじを脱いで世話になった折、私がロスアンゼルスからの客人フレッドリック・マーラーに萩を案内した。何を隠そう、彼こそ数学者であり、現代陶芸のアメリカで草分けのコレクター、しかもロスにピーターを呼びオーティス・アートインスティテュートで仕事をさせ、世に送り出した偉大な人物である。

 その彼の計らいで、美術館の華やかなオープニングの会場でピーターに会った。その夜の二次会の席はかつて抽象表現主義の真っ只中でピーターが、まだキャンバスに向かっていた頃の友人のロフトで開かれた。折りも折り、金子ジュンがアメリカに戻った祝いも兼ねて、すごい人数の素敵なパーティーになった。素敵な芸術家達と一緒に過ごした興奮は、摩天楼にきらめく光のようだった。

 数日後、グリニッチビレッジで開かれたピーターのワークショップでの作品の一部を、穴窯で焼いてみる事になった。若いアメリカの作家で小さな単室の薪窯を持っていたピーター・カラスに、私が日本の窯詰めと窯焚きの技術を教えていた矢先の事、少し鉄まじりの備前のような土のヴォーカスの作品は、土、本来の力を表に引き出し始めていた。

 これを契機に私とカラスとヴォーカスの新しい刺激的な関係が始まる事となった。

 薪の火で長い時間、灰とオキで渋く燻したように焼き上げたピーターの作品を持って、ニューヨークからサンフランシスコに降り立った。エアーポートに彼自身自ら迎えにきたヴォーカスは、空港の洒落たバーでスカッチアンドソーダを舐めながら通り過ぎるちんけいな東洋人に声をかけた<Hei,Katsu!>。

 渋いかなり年代物のピックアップトラックで彼のTHIRD STREETスタジオに向かった。線路沿いの町工場のような何とも、すさまじい所で全米で最もホットなヴォーカスのスタジオはさぞ豪華な住まいと仕事場を期待していた私は、頭から冷水を浴びた思いがした。そして芸術の芯なるものをチラッと垣間見た気がした。

 フレッドリック・マーラーは、いみじくも私に言った。茶碗を作る極意を!<Katsu,轆轤座の前の障子戸を開けると、いつも梅の花が咲いて、鶯が鳴いている所では茶碗は生まれない!>さすがヴォーカスの生みの親、ヴォーカス自身もまさにその者、その人であった。

 これは内緒の話なのだが、さすがヴォーカスと言えども人の子、誰おも恐れぬピーター、時としてフレッドリックに叱られるような事があったときは、まるで小さな子どもが父親に叱られた時のように、シュンとしてしまったことを思い出すと、思わず笑いがこみ上げてくる。ピーターが、常に父親以上に気にしていたのは、フレッド唯一人だった。

 この日本に帰る前にちょっと寄るつもりが、あまりの楽しさでとうとう三週間あまり、ヴォーカスの所で過ごす事になってしまった。

 当初、ピーターは、初めて自作の焼締めの作品を観て、そのものについて多くを語らなかった。その場ですぐに礼を言うと<切ったちの茶碗>のような作品と、ドール<人形>二点を私に惜しげもなくくれた。その夜、さほどの感想もなく大きな手の長い指でしきりに作品を撫でていたのを思い出す。新しい作品と間合いを取るようにお気に入りのテーブルの上に常に置いておいた。

 二、三日後ピーターは、突然に桃山の織部について語り始めた。驚いた事に日本の焼物についてピーターは、驚くほどの専門的な知識を持ち合わせていて、単なる東洋趣味とは遥かに違っていた。

 特に彼が作品を作り始める出発点と、織部が持つ存在の自由、闊達さは、全く一緒であると言って、少しだけ手の内を見せてくれた。

 あの刺激的な色彩の緑釉と鉄、手の中から自然? と生まれた刺激的なフォルム、だからこそ全く逆に、ピーターを怒り狂わせて二度と彼の顔を見たくなければ、二つ三つのファンシイな美学用語と屁理屈を自作の作品に散りばめればそれで全ては終わる。

 自己の手の中から生まれた物から常に出発することを心情としたピーターは、あれほどまで美学を嫌った男を私は知らない。巧妙なハンターのようにピーターは、日本の織部を彼の初期の作品の中に滑り込ませる事に成功した。その彼の作品を見るたびに、私はピーターの秘密を見たような気分になって、思わずニヤッとしてしまうのである。

 禅について語るのは、私は口幅ったいが、ピーターは、よく白を黒と言って、黒を白と言って楽しんでいたようだ。ニューヨーク時代の若かりしピーターが、コロンビア大学での鈴木大拙の禅の講義から、何を得たのか聞いてみたかった。これほど馬鹿な質問はないと思うが、もしもこの質問をしたらピーターは、二度と口を利いてくれぬか、あるいは怒り狂って怒鳴り散らすかのどちらかだろうと思う。

 そして冗談とも本気ともつかぬように、よく私にピーターは言った。<僕の前世は、桃山時代に日本で焼物を作っていた>と。ひょっとすると彼は、日本の桃山時代の精神と情熱を、そのまま持っていたのかもしれない。そして西洋人にしては珍しく、窯の火に任せる所があって結果について、どうしてそのような結果になったのかの質問は、ついに一度も聞いた事がなかった。

 彼の血が、ギリシャ人の血のせいだろうか? ついぞ自己の焼締めについてのコメントは聴く事がなかったが、備前や信楽、伊賀の美しさについて聞くことはあった。そして、そのエッセンスを何時も密かに自己の作品に忍ばせておいた。私は、ピーターのその毒の盛り方が、ひどく好きだった。

 私は、日本に帰る晩の遅く、一年後アメリカに穴窯を築いてピーターの作品を焼くことを約束した。私の都合でもう一年遅れる事になるのだが。彼は私に言った<Katsuは、ちっとも僕の邪魔にならない! お前は小さいから!>ギターでフラメンコをひきながら・・・。フラメンコを若いときに本格的に勉強をしたらしく、彼の情熱にこれほど逢うものは他に見当たらなかった。ピーターが、ギターを手にとるのは世も更けて午前二時過ぎた頃で、もう誰もいなくなり、大抵二人っきりの時で、ひとしきりフラメンコを引きながら夜の闇を惜しんでいるようにも見えた。

 ピーターのスタジオの今もって解らない事のひとつ、毎日午後を過ぎるとどこからともなく、彼の学生やら友人、訳の分からぬ人で一杯になり、ピーターが居ようが居まいが、業務用の大きな冷蔵庫から勝手にビールを取り出して、何かしら話をして帰っていく。これが延々と十二時過ぎまで毎日続くのである。

 華やかなTHIRD STREETスタジオの目の前を、甲高い汽笛を鳴らしながら長い長い貨物列車が、轟音を立てて通り過ぎる時、孤独という言葉から程遠いピーターの中にも、何かしらの<かけら>を私は思い浮かべて眠りについた。

 二年後、私は約束どおりニュージャージィ州立ピーターズ・ヴァレー・アートセンターにJapan Foundationのスポンサーで穴窯を打った。ニューヨーク、マンハッタンのJapanソサイァテーのピーター・グリリーの素晴らしいバックアップが有って始めて実現した事なのであるが・・・。日本の鎌倉期から室町にかけての美濃周辺で築窯された穴窯の復元も兼ねてのプロジェクトであった。

 私のクラスを支えてくれたピーターのため、西海岸から東海岸まで生乾きの彼の作品は空輸され、ピーターの本格的な焼締めの作品が始まった。自然釉とオキ、灰から醸し出される土のテクスチャーは、ピーターの作品を一変させて、ヴォーカスをして夢中にさせてしまった。私とカラスは、争うように彼の作品を焼くこととなる。

 私のアメリカの穴窯はヴォーカスの作品を焼く事により全米で最も有名な窯となった。穴窯のプロジェクトを支えるためヴォーカスをはじめ、ルディ・オーディオ、カネコ・ジュン、ボブ・ターナー、トシコ・タケエズ、ケン・ファーガソン、ウェイン・ヒッグビー、ドン・ライツ・・・。等々、数え上げたらきりのない沢山の陶芸家に支えられた。

 ‘79年に始まった穴窯は夢のように広がりをみせ、数え切れぬほどになり、アメリカ陶芸の中に新しく<焼締め>のジャンルを加えることが出来たこと、今振り返ると不思議な思いにかられる。

 今年、2月16日、オハイオ州ボーリングリーンで享年、七十八歳、ピーター・ヴォーカス客死す。オークランドミュジアムで4月6日公式の葬儀が行われ、翌日、プライベートのメモリアルセレモニーが、ピーターのドームスタジオで開かれ、全米から約400人近くの人々が集まり、懐かしい人たちと久しぶりの再会を得た。ただし、ピーターを除いて。そして、大きく時代が動いて、ひとつのアメリカンジャーニーが終わった。

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